<現在の道>
二本松峠は岡山県新見市哲西町と広島県庄原市東城町の境に位置している。かつては備中新見路と呼ばれた街道は、大正9年には県道新見東城線に、昭和38年には国道182号線に指定されており、国道は街道筋の南側を通っている。二本松峠は東城の街と比べても大した標高もなく、小高い丘のようになだらかなので、広島県・岡山県の県境標識が建つ峠を越える車は大した苦もなく通過していく。
哲西町側の街道筋への入口は、国道182号線が中国道をくぐるところから新見側へ少し戻ったところ。右の山手の方に上がる脇道が、二本松峠へと続く道で、化粧ブロックの積まれた坂道を登っていく。
民家が途切れると、家庭菜園のような小さな畑の横を通り抜けて、林の中へと入っていく。途中、幅の狭いボックスカルバートで中国道の下をくぐり、前後は杉が植えられた林の中を通って、二本松峠へと向かって西へ進んでいく。
杉の木立の中の坂道を登りきると、前方が開けており、右手には妙傅寺というお寺、その反対側には小さな祠がある。お寺への参道の前から土色のカラー舗装が施されている。
そのすぐ先には若山牧水と喜志子夫人、長男旅人氏の親子三人の歌碑が置かれており、一帯は「牧水二本松公園」として整備されている。歌碑に刻まれている、「幾山河こえさりゆかばさびしさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく」は若山牧水が、明治40年に郷里の宮崎への帰省の際、二本松峠の茶屋・熊谷屋(くまたにや)に泊った時に詠んだ歌。
公園には熊谷屋を模して造られた集会所が建っている。また、その横には若山牧水が二本松峠で詠んだもうひとつの歌、「けふもまた心の鐘を打ち鳴し打ち鳴しつつあくがれてゆく 」の歌碑が建立されている。
昔の二本松峠は人馬の往来が盛んで、熊谷屋はこの道を行き交う人々の休憩所として賑わっていた。しかし、大正9年に現国道のルートに新道が開通し、昭和5年に備中神代から東城まで芸備線が開通すると、この道を歩く人も少なくなり、次第に寂れていったため、熊谷屋も取り壊されたとのこと。
牧水二本松公園の中で、ひときわ大きな木は、一里塚の標木であったエノキの木で、根元には小さな祠が祭られている。このほかに、牧水生誕の地である、宮崎県東郷町から贈られたヤマザクラも植えられている。
地元の方によって寄付された二本松峠の石碑の先が、「二本松の国境」である。御境杭木(おさかいこうぼく)という門型の木柱が復元されており、国境らしい雰囲気を醸し出している。
江戸時代、ここには浅野藩の番所があり、峠の名前の通り二本の大きな松の木があったそうだが、その松は枯れてしまっている。道路の南側の松の木は、植え替えられて国境の石碑の横にあるが、道路の北側の松の木が生えていた一里塚のほうは、「従是西藝州領 すゑひろのまつ」などと書かれた木柱が建っている状態で、松の木は一本だけとなっている。
また、江戸時代に造られた国境の石碑は二本あり、それぞれ「従是東備中國 哲多郡大竹村」「従是西備後國 奴可郡福代村」と刻まれている。
国境の石碑の前を通り過ぎ、広島県側へと入ると、道の両側には数軒の民家が建ち並んでいる。これらの民家の中には、かつては茶屋や雑貨店などの商店を営んでいた家もあり、二本松峠の岡山側と同様に、なかなかの賑わいだったそうだが、今はその面影もなく、ひっそりとしている。
家々の間を抜け、杉林の中へ入っていくと、道端に三体のお地蔵さんが祭られている。
杉林の中を抜けると、等高線に沿うようにぐるりと回りこんで、東城の町へと向けて下っていき、狭いガードで芸備線の下をくぐる。
ガードの先には水田が広がっており、ほどなく国道182号線に合流する。一時はこの街道に取って代わった芸備線も、今ではすっかり国道と中国道にその地位を奪われており、なんとも皮肉な感じ。
このページの作成にあたり、参考とした文献等
広島県文化百選5・道編 中国新聞社
ふるさとの峠と街道 菁文社