<現在の道>
広島県と島根県の県境になっている赤名峠の下を貫く、国道54号線赤名トンネルは、昭和39年
9月竣工で、延長は599.8m。
トンネル坑口の壁面には、出雲の神話にちなんだレリーフが取付けられている。
赤名峠を通る旧国道は、広島と松江を結ぶ県道として明治18年に着工し、明治20年に完成したもの。
国道54号線を北へと進んでいくと、広島・島根県境にある赤名トンネルの手前で、登坂車線が終わる。「登坂車線ここまで」の標識板が掛かっている門型の柱の脇を左へと入ると、赤名峠へと続く旧道がある。旧道へ入ると、未舗装の幅1車線ほどの道が奥へと続いている。
未舗装の路面には、砕石が敷き詰められており、タイヤが踏まない道路の中央部分には背丈の低い雑草が生えている。途中、進入防止の柵が設けられた林道が左へと分かれているが、この先はアサヒビールの社有林となっている。
勾配を緩やかにするために、現道西側の谷を左へと大きく回りこむような形で、等高線の凹凸に合わせるように進んでいく。赤名トンネル入口の真上近くを通り過ぎるところでは、現道を走る車の音が下から聞こえてくる。
旧道の山側に残っている石積を見ると、明治時代にこの道を開設したときそのままではないかと思われるような野面石の石積や、間知石大の形のそろった割石を積んだ石積もある。
赤名トンネル入口の上を通り過ぎると、車の音は次第に遠ざかっていき、静かな山中に未舗装の旧道が続くのみとなる。
旧道のほとりに「旧出雲街道」と書かれた看板が建っている場所からは、南へ向けて杉林の中に江戸時代の街道が残っている。
赤名峠の頂上の手前右側には、三次市布野町出身の歌人・中村憲吉が赤名峠から女亀山を詠んだ歌の歌碑が建っている。歌碑に刻まれている歌。「国境にいざよふ雲や国原に雪もしぐれももこの御山より」
標高680mの赤名峠の頂上は切り通しとなっており、道幅は峠の頂上にさしかかるまでよりも若干広くなっている。広島県と島根県の県境には、県境を示す看板のほかに、国境の石碑、街道と石碑の由来を記した説明板などが建っている。
赤名峠を通る道は、古くから山陽と山陰とを結ぶ重要な街道とされており、江戸時代には、石見銀山で算出した銀や銅もここを通って運ばれたが、赤名トンネルの開通までは、冬季の雪の多さから交通の難所とされていた。昔は頂上付近に茶店や、旅人の安全を祈る「いぼ地蔵」などがあったそうだが、年月の経過により草木に埋もれてしまい、今はそれらがどこにあったのか、分からなくなっている。
国境の石碑は、明治20年の道路工事の際に赤名峠から八幡神社の境内に移設されたが、平成19年に再び赤名峠へ移設復元されたもの。(左の写真は、石碑が八幡神社の境内にあったときの様子で、移設された石碑は左側の石碑。)
石碑は、「三次郡横谷村 従是南藝州領 従是南 備後國」と「横谷村 従是南廣嶋領」と刻まれたものの2本あり、前者は1822(天保3)、後者は1722(享保6)年に建てられたという歴史のあるもので、三次市重要文化財にも指定されている。
赤名峠の頂上を過ぎ、島根県側へ入ると、右へ緩やかにカーブしながら下りへと転じる。100mくらい進んだところに、飯南町が設置した赤名峠の案内板があり、赤名峠を詠んだ歌が紹介されている。
「人麿のことをおもひて眠られず赤名越えつゝ行きしおもほゆ」(斉藤茂吉)
「君を送りて国のさかひの山越えの深き峡路にわかれけるかも」(中村憲吉)
木漏れ日が射す林の中を進んでいくと、赤名トンネルから出た現道が林の下を通っているので、国道を走る車の音がよく聞こえる。
山の等高線に沿うように、左へ右へと小さいカーブを繰り返しながら下っていくと、次第に現道から離れていき、国道を走る車の音も小さくなっていく。
赤名峠の北にある田中谷という谷へと下りていくために、右へカーブして東へと向きを変えつつ進んでいく。
杉の木立の中に現れた竹林の横を通り過ぎ下っていくと、やがて大きな左カーブを切っていく。林の中から抜け出たところには、左手に建設会社の重機が置かれた平地がある。
カーブの途中で、沢沿いから下りてきた林道が合流してくる。西へと向きを変えて山すそを進んで行くと、水田とともに民家が見えてくる。
旧道沿い最初の民家の横辺りから、アスファルトで舗装された道路となる。数軒の民家の横を通り過ぎて、国道沿いに設置された気象観測施設の横で、旧道は現国道へと合流する。飯南町側の旧道の入口には、「赤名峠入口」と記した木柱が建っている。
このページの作成にあたり、参考とした文献等
布野村誌 布野村
ふるさとの峠と街道 菁文社