旧県道加計廿日市線・河内峠



 現在の山県郡安芸太田町加計から、広島市佐伯区湯来町・五日市町を経て、廿日市市へ至る道は、古くから山県郡と佐伯郡の往来に利用されてきた。1797(寛政9)年に、広島城下から山県郡都志見村の駒が滝を探勝した画家岡岷山は、往路に河内峠を通っており、彼が記した「都志見往来日記」に当時の河内峠の様子が記述されている。
 明治15年には、加計から廿日市に至る三等県道に指定されたのち、明治34年には、加計−廿日市間の県道で最大の難所となっていた河内峠の改修工事が開始され、明治37年に八幡川沿いの新ルートの県道が完成している。
 その後、魚切ダム建設による一部区間の水没のため、昭和52年に現在のルートに付け替えられている。



 八幡川に沿って北上する県道五日市筒賀線が、山陽道の高架橋をくぐったすぐ先の川坂交差点で左折し、河内峠を通る旧県道のルートへと入る。そして、下河内集会所のバス停のところを右へと分かれる道が、昔の地形図では県道となっているが、道路の拡幅により現在のような形となったのか、逆鋭角に分かれる不自然な分岐となっている。



 集落内の生活道といった感じの1車線幅の道に入り、次の角を左折する。頂上に権現神社という神社がある小山の南斜面へと登っていき、そのまま小山の西斜面中腹あたりのなだらかな道を進んでいく。彩が丘団地入口の交差点へと出るところは切り下げられたようで、いったん下りとなる。



 河内農道と交差し、農道西側の山の中へ入っていくが、人が歩ける幅の小道が続いている。この道は人家が近いこともあってか、いくらか歩く人もあるらしく、廃道のような雰囲気は感じられない。




 雑木林の中を抜けて、荒谷川の谷筋に出てくると、民家や畑が点在する中をを進んでいく。荒谷川を橋で渡り、川の左岸へと移ったあと、釣り堀と神社の前を通り過ぎると、最後の民家があり、その先は川沿いに登っていく道だけになる。



 もとの道は荒谷川と並行していたようだが、砂防ダムの建設により、山側へと付け替えられている。荒谷川には大きな砂防ダムが複数設置されており、名前のとおり、「荒れる川」のようである。途中、平成11年6月の豪雨災害によるものと思われる痛々しい山崩れのあとが今もなお残っている。


 荒谷林道との分岐では、荒谷川との標高差はなくなるものの、川と並行して対岸へと橋で渡る林道に対して、二股分岐の右側、 斜面の中ほどに砂防ダムの付替道が作られている。付替道の坂道を登り始めると、鋼製スリットのある砂防ダムが姿を現す。付替道が完成する前は、鋼製スリットの間をくぐり抜けて、河内峠へとの向かっていたが、付替道の完成により、砂防ダムの横を難なく通ることができる。




 右側の法面に法枠の続く、砂防ダムの付替道を進むと、杉林の中へと入っていくところで、荒谷川の河原近くに続いていたもとの道と合流する。砂防ダム上流の河原には、石ころとともに、砕けたアスファルトの塊が転がっており、豪雨災害の前にはここに道路があったことが判る。



 杉林の中には、古びて苔生したアスファルトの道路が続いており、そこを進んでいくと、左手に名前もない小さな滝があり、ここで道路の舗装が途切れている。



 滝の下を過ぎた先で、左手へと続く小さな沢のほうに進行方向を変え、人が歩けるだけの山道が河内峠へと続いている。登るにつれて、峠に向かう道の横を流れていた沢の水が次第に少なくなり、ついにはその沢もなくなる。



 熊笹が周囲の地面を覆う中を歩いていくと、河内峠の説明板とベンチが設置された、峠の頂上に到着。
 以下は、河内峠の説明板に書かれていた、都志見往来日記の一文。
 「ようやく登りて河内峠に至る。しばらく芝居してながめるに、北に大山ががとし、中腹に細ききこり道あり。下に谷川帯のごとくにめぐれり。上より見ればこの川、ところどころ渕ありて藍のごとくにわかる。この峠より西北の方へ斜めに下りて谷に入る。左山高く、右に流れを見て行くほどに、樹木茂り、隠々として冷ややかなり。道の辺り、くハとう蘭雪もよう美しく花咲けり。」(なお、文中の「くハとう蘭」とは山ぜりのことと注釈があった。)



 河内峠から、八幡川の川筋へと下りていく道は、峠への登りと比べて急な勾配となっている。下り道の途中、山から出てくる沢に架かけられた木橋のたもとに、古い石積みが残っている。河内峠の頂上付近には昔、茶屋があったそうだが、ここにも何か建物が建っていたのであろうか。



 坂道を下りていくに従い、静かな対岸の現県道を走る車の音が耳に入るようになり、次第にその音が大きくなっていく。進行方向下方にアスファルト舗装の道が見えると、ほどなく魚切ダム右岸の道へと出る。



 沈殿池の向こうに見える対岸の現県道を見ながら、そのままダム右岸の道を道なりに進んでいき、下原橋という名前の橋を渡ったところで、県道へ合流する。



 一方、魚切ダムが出来る前の旧道は、ダム堰堤の下流側に今も残っている。
 現県道が八幡川沿いから湯来へ向けての登り坂となるところを、そのまま川沿いに進む道が旧県道。魚切ダムの水を上水にしている白ヶ瀬浄水場の前を通り過ぎて、川沿いをさらに進んでいく。



 魚切橋という名前の橋を渡り、八幡川の右岸に移ると、道幅は狭くなる。魚切橋のたもとには、湯の山温泉の古びた看板が残っており、かつて湯来へと続く道であったことを偲ばせる。



 途中、山の斜面から下りてくる送水管が設置されており、道路を挟んでその反対側に見える木造の建物は、中国電力の河内発電所。中国電力の発電所の中で最も古い発電所で、明治40年に発電を開始している。なお、前方の山の中腹辺りには、現道の橋が見える。



 発電所の先のカーブを曲がり、道路から八幡川の川縁に下りると、次郎五郎滝がある。次郎五郎滝を含んだこのあたり一帯を、八幡川峡として開発した時期があったようだが、今はその施設も無惨にも廃墟となってしまっている。滝だけは昔からそのままの姿をとどめているが、ダム湖の富栄養化が進んでいるためか水質はよろしくない。



 現県道へと登っていく道との分岐には古い案内標識があり、「行き止まり」と書かれた方向へ直進すると、その先で前方に高々とそびえる魚切ダムの堤体が現れ、その下で旧道は途切れている。行き止まりの先には、広島県から中国電力へ譲渡された魚切発電所の建物がある。
 昔の地図によると、旧道はこのあたりで八幡川を渡り、そのまま左岸を川沿いに進んでいたようだが、今はもうダムの底に沈んでしまっており、その姿を見ることは出来ない。


 広島市農協河内支所の裏にある、河内公民館の前庭には、八幡川沿いの県道開通を祝って旧河内村が明治40年に建てた「新道改修の碑」(左側の石碑)がひっそりと建っている。


 このページの作成にあたり、参考とした文献等
  五日市町誌 五日市町


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