<現在の道>
栗屋峠の下を貫く栗屋トンネルは、昭和62年10月に開通している。トンネルの延長は1,041mで、開通当時は広島県道のトンネルとしては最長であった。栗屋峠を越えた先の下りには、犬伏山ループが続いている。なお、県道名は主要地方道に昇格して以来、吉田瑞穂線であったが、平成16年に島根県瑞穂町が合併により邑南町となったことから、平成18年4月に吉田邑南線に変更されている。
栗屋トンネルへと続く改良された県道を登っていくと、トンネルの入口に差し掛かる手前、県道の左側に、ガードレールで囲まれたトンネル内のラジオ再放送のための設備がある。そのすぐ先で、右へと分かれている道が栗屋峠の旧道である。
旧道への入口と、旧道に入って次のカーブの2つ続くカーブは、逆にSの字を書いたようなカーブとなっており、山の西側斜面を緩やかな勾配で登っていく。
改良されていた区間も終わり、道幅は狭くなって、1車線幅の道となる。道幅は狭くなったものの、栗屋峠の頂上へ向かって林の中をまっすぐと道が続いており、見通しは良い。
熊笹や雑草が繁茂している道路の両側に、高さ1m足らずの苔生した石積みが続いており、いくらか切り下げられている栗屋峠の頂上へ到着。
ちょうど栗屋峠の頂上に当たるところには、道路右側の法面に自然石を利用した標石が建てられている。石の肌を見る限りは、かなり古くからあるもののようだ。
栗屋峠の北側は、林道らしき未舗装の道が左手へと分かれたあと、峠が源流となっている智教寺川の造った谷の西側斜面を下っていく。
モルタル吹付が施されたやや切り立った法面の下を通り過ぎ、等高線の凹凸に沿うようにカーブしながら下っていく。この辺り一帯の山は国有林となっているようで、1985年の国際森林年を記念して、スギ・ヒノキなどが植林がされている旨の森林管理局が建てた看板がある。また、道路脇には国有林の中での作業のための倉庫があるが、生い茂る雑草に埋もれつつある。
道路右側の視界が開け、路肩にガードレールが設置されている箇所では、法面の下に栗屋トンネルから出てきた現道が通っており、下の道路を走る車の姿も見える。
その先で、旧道は大きく右へ左へとカーブして、距離を稼ぐことで現道との標高差を埋めて、犬伏山ループに差し掛かる現道へいったん取り付く。
旧道は犬伏山ループの大きな曲線半径の右カーブが始まったところで合流するが、その先ですぐに左手の山に張り付くように現道から離れていく。なお、ループから北側の区間は、車止めの柵が設置されているので、車の乗り入れは出来ない。
犬伏山ループは、他でよく見られるループ部分が橋梁となったループとは構造が異なり、盛土により造られた坂路と、その盛土をくぐるトンネルからなる珍しい形のループ。
現道から分かれた先では、それまでよりもやや急な勾配で下り、ループの中にある犬伏トンネルから出てきた現道の上方の山の斜面を通る。
西側の谷へと大きく回りこみ、再び現道へ合流したところで、栗屋峠を挟んだ旧道の区間は終わる。この先、県道吉田邑南線は、広島・島根県境に位置する、安芸高田市美土里町智教寺へと向けて下っていく。
水田と点在する民家が見えてくると、県境の小さな集落、智教寺である。この集落には、天下墓という名前の、室町幕府最後の将軍である足利義昭の墓と伝えられている墓があり、集落名の智教寺と関連がある。
文政2(1819)年に記された、国郡志書出帳生田村によると、毛利氏を頼って鞆に来た足利義昭が、毛利氏と不和になったため、今度は尼子氏を頼って山陰へ行こうとしたものの、途中に病のため山陰行きを断念し、この地に智教寺という寺を建てて数年間住み、没したのちに、住民が墓を作ったとされている。(なお、史実では、足利義昭は1597年に大坂で死去したことになっており、あくまでも伝説である。)
広島県と島根県の県境は、長瀬川に架かる橋の手前、県道の左手・西側の山の稜線が下りてきたところとなっている。県境を示す標識は視距をとるためか、いくらか島根県側に入ったところに建っているように見受けられる。
また、標識の横には安芸国の国境を示す石柱が残っており、江戸時代には栗屋峠を越えるこの道が主要な街道であったことがうかがえる。
このページの作成にあたり、参考とした文献等
ふるさとの峠と街道 菁文社
ふるさとの道と民俗 菁文社