国道375号線・大根坂峠



 <現在の道>
 呉市広町と呉市郷原町の間にある、大根坂峠の西を通る二級峡トンネルは延長533mで、平成4年3月竣工。
 江戸時代は大根坂峠には、急な坂道の続く石畳道があったが、明治の初め頃に東広島市黒瀬町の豪農・平賀寛夫氏が道路の建設を計画し、難工事の末、明治16年に車馬の通る道が開設された。数度にわたる改修のあと、昭和23年には峠の西側の山を貫く黒瀬隧道が開通し、昭和50年には県道から国道へ昇格した。しかし、大型車の離合が困難なトンネルであったため、新たに二級峡トンネルが建設され、黒瀬隧道のルートは50年足らずでその役目から外れた。


 なお、黒瀬川を挟んだ反対側、西側の山の斜面の中腹では、東広島呉道路の建設が進められており、工事の様子は現国道からも垣間見ることが出来る。



 国道375号線を広から黒瀬へと向けて進むと、登坂車線が設置されている。上り車線左側の駐車帯が異様に広く、幅から見るとあと2車線くらいは取れそうな幅がある。新大津江橋という橋の手前で登坂車線は終わり、橋を渡った先に左右に分かれる道がある。左に分かれる道は旧道へ、右に分かれる道は旧々道への取付道となっている。まずは、左折して旧道の方へ車を進める。


 左折して旧道への急な勾配の取付道を上がると、左右にセンターラインのある道路が続いている。



 そこを左へ進んで、広の方向へ続いていた旧道の坂道を下っていく。正面の山の斜面へ突き当たるところで左へと大きくカーブを切る。



 青く塗られた橋桁の新大津江橋の方へ進んでいくと、橋を渡った先で現道の盛土に埋もれて、車道は途切れており、人だけ歩いて階段で、現道へと上がれるようになっている。



 旧道への取付道を今度は反対側の右へと曲がると、車道へコンクリートの方塊ブロックが置かれている。その先のカーブの途中には、舗装の端部に黄色いセンターラインが少し残っており、旧道も現道の掘割によって、このカーブを内側へと一部付け替えられているようだ。



 カーブの先に、途切れた旧々道のガードレールが見えてきて、その奥には大量の石が置いてある。センターラインのある道幅ながら、道の両側から茂ってきた雑草により埋もれつつあり、1車線ほどの幅しか舗装面が見えなくなっている。



 黒瀬隧道の高さ制限を予告する門型標識があり、ここにも方塊ブロッが置かれている。さらに、ブロックとブロックの間はチェーンで封鎖されているため、車では入れるのはここまでで、その先へは歩いて進んでいく。




 黒瀬隧道の入口を塞ぐように両脇の斜面から倒れ落ちてきた雑木が横たわっている。木の隙間を抜けると、フェンスがあるものの、トンネルの中へ入れるようになっている。
 なお、黒瀬隧道手前の道路左手の空き地に、トンネル工事で命を落とした殉職者の碑が建っており、裏側には二名の方の名前が刻まれている。




 照明が落とされて薄暗いトンネルの中へ入ってみると、坑口付近はコンクリートで巻き立てされているが、中央部は吹き付けがされているだけで、ゴツゴツした岩の凹凸が見てとれる。トンネルの反対側、出口はしっかりとフェンスで封鎖されており、ここから出ることはできない。
 しかし、トンネルの中ほど左側に人が入れるほどの横穴が開いており、ここから二級峡の散策路へと抜け出ることができる。



 さて、トンネルが封鎖されていて通り抜けできなかったので、旧道の反対側へと回ってみる。下高バス停付近から、現在の車道の横にもとの舗装面が残っており、山側へと車線が振られていることがわかる。二級峡トンネルの手前で右へと分かれていく道が旧道。



 旧道に入ってすぐのところ左手に、鷹林宇一夫妻頌徳碑という大きな石碑が建っている。裏面の説明文によると、鷹林宇一氏は郷原出身の陸軍中佐で、昭和18年に南太平洋で戦死している。




 その先へ進んでいくと、200mほどで黒瀬隧道の坑口へとたどり着く。こちらは倒木などの遮るものがないので、「黒P隧道」と刻まれたトンネルの扁額がはっきりと見える。トンネルの手前で右へと分かれる道は二級ダムの堰堤へと続いており、堰堤からさらに二級峡への散策路に続く階段が設置されている。



 二級峡は黒瀬川が岩を浸食してつくりあげた峡谷で、二級滝は芸藩通史で「安芸国第一の滝なり」と記されている。昭和17年に二級ダムが、二級峡の直上流に完成しており、普段は二級ダムからの放流がないために、枯れ川となっていることが多い。しかし、写真のようにダムからの放流があるときには、轟音を立てて滝から水が流れ落ちる景色を見ることができる。



 二級峡の散策路に架かる吊橋・甌穴橋は、通路の部分がグレーチングなので、下が見えてスリル満点。



 さて、新大津江橋上の交差点へ戻り、今度は交差点を右折して旧々道への取付道となっている坂道を登っていく。右手の高いところに建つ電柱があり、そこをよく見ると藪に覆われたブロック積と、ガードレールがぷっつりと途切れているのが分かる。



 さらに坂道を少し登った先、左手の墓地の手前にもアスファルトの路面が残っている。その先で鋭角に道路に交差するが、その交差点ではやや不自然な形で道路の勾配が変わる。また、右手には、行先が勧農坂・十文字と、野呂山の地名が記された案内看板が建つコンクリート舗装の道が分かれている。



 そのまま左手に今までよりも緩い上り勾配で続いていく道の反対側にも、ほぼ同じ勾配で鉄工所のほうへと道が続いているが、鉄工所のところで行き止まりのような形となっている。



 二級峡トンネルへと登っていく車の音が次第に遠くなっていき、ひっそりとした1車線あまりの坂道を登っていく。


 二級峡トンネル入り口のすぐ上を通るあたりで、先ほど登ってきた道の様子を見ると、取付道の交差点から鉄工所へ続いていた道が、大きくカーブして、取付道脇の藪に埋もれたブロック積の箇所へと続いていた形が見て取れる。そして、現道を挟んだ反対側にも途切れたガードレールと道があり、旧々道は現道の建設時に二級峡トンネルへの掘割で分断され、付け替えられたものと思われる。



 小刻みなカーブの続く道を登っていくと、進行方向前方の斜面に二級峡墓苑という墓地が見えてくる。



 二級峡墓苑への進入路が分かれた先で道幅が狭くなり、1車線幅の道となる。しかし、狭いながらも車の往来はあるようで、車の通らない廃道のような荒れた感じはない。



 右側に切り立った岩が露出した道を登っていくと、道路の左側に古い常夜灯がある。この常夜灯は、明治16年にこの道路が開通した際に、平賀氏が往来する人々の安全を願って建てたもので、呉市の文化財に指定されている。常夜灯には「明治十六年季十二月 往来安全」と刻まれており、風の影響を考えてか、灯りを灯すための火袋の窓は南側だけにあるという珍しい形になっている。



 道路の右手に六角堂があり、その先のカーブのところには、左側に平場があって、二級峡へと下りる小道が続いている。



 旧々道を進んでいくにつれて、道路右手の切り立った岩は雑木の生い茂るなだらかな斜面となる。



 やがて寂しい山道から抜け出ると、郷原町側初めての建物が見えてきて、すぐに道沿いに民家や畑が見られるようになる。



 現道から呉大学へと続く市道が掘割となっているため、その市道の上を橋で渡る。この辺りまで来ると、現道を走る車の音もよく聞こえてくるが、右へとカーブして少し現道から離れる。



 再び現道のほうへと近づいていき、緩やかな坂道を下った先で、鋭角に現道へ交差したところで旧々道は終わり。



 そして、この峠にはさらにもうひとつ昔の道が残っている。旧々道の取付道から分かれていたコンクリート舗装の坂道を登っていくと、建設会社の作業場へと舗装された道が続いている。そこをまっすぐ山のほうへと続く未舗装の道が江戸時代に利用された大根坂峠を越える旧黒瀬街道である。



 車のわだちにあたる部分だけ草が生えていない未舗装の道を歩いていくと、右へとカーブして登りにさしかかったところで道路右手の斜面を造成した際に作ったと思われる石積みが現れ、コンクリートで舗装されている。



 造成地はこれまた建設会社の資材置場だったようだが、今はほとんど使用されていない様子で、重機やヒューム管などが草の中に埋もれて放置されている。造成地の横を過ぎると、舗装は途切れてわだちも見出せなくなるが、その先にも確かに道が続いており、そこを歩いていく。



 雑木林の中を続く坂道が左へとカーブした先で、幅2mほどの路面に敷き詰められた石畳がはっきりと姿を現す。落ち葉もかなり降り積もっているものの、石畳はその先にも続いている。



 坂道の前方にブロック積とガードレールが見えてきて、そのブロック積の端へと向けて急な坂道となっている。道路を作るために石畳の一部は埋められてしまったようで、ブロック積の下には呉市が建てた説明板がある。その説明板によると、大根坂峠を越える道は江戸時代に作られたもので、先ほどの石畳も江戸時代に敷かれたものと伝えられているそうだ。



 坂道を登りつめたところには観音堂があり、ちょうどここが峠の頂上となっており、広町と郷原町の境界もここを通っている。観音堂の前を通る改良された道は、建設途中の林道郷原野呂山線の一部で、林道を挟んだ反対側にあるコンクリート舗装の道が今まで歩いてきた旧街道の続きである。



 大きな右カーブを切っている林道をまっすぐ横切り、その先へとコンクリート舗装の道は続いている。墓の手前で右手からコンクリート舗装の道が合流してきて、コンクリート舗装の道は道路左川の石積みに沿って下っていく。



 道なり直進方向には、蓋が掛けられた側溝の先に平場があり、その向こうはヤブとなってしまっているが、そのヤブをかき分けて奥へと入っていくと、道路の形が残っており、道沿いに石積みも残っている。



 呉大学の造成に伴って新しく作られた市道の下、雑木林の中に石畳の残る旧街道が続いている。呉市が建てた説明板がここにも建っている。



 薄暗い雑木林の中を歩いて下っていき前方が明るくなってくると、道の左側に畑とその先に民家が見えてくる。畑と民家の横を通り抜けて、アスファルト舗装が施された車も通れる市道へと出る。



 国道375号線から呉大学へと続く片側1車線の市道が通っており、その道を挟んだ反対側に続いている道を歩いていく。



 砂防河川に架けられた橋を渡り、畑の中に民家が点在する集落の中を北へと続く道を歩いていくと、畑の横で道が三つ又に分かれている箇所へと出る。



 ここでは真ん中の道へと進んでみたところ、交差点の横に建つ民家の前を過ぎると、次の民家の前までは未舗装の道となっている。その先には拡幅された下りの坂道が続く。




 呉大学の北側にある団地へと続く市道を渡ると、畑の中を緩い坂道が続いている。左手に国道375号線が見えてきて、斜面に広がる畑を斜めに横切るように下っていき、渡川の信号の南側で、国道と合流し、大根坂峠の旧街道の探索はこれで終了。


 このページの作成にあたり、参考とした文献等
  広島県文化百選5・道編 中国新聞社


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