<現在の道>
上下線2車線ずつのトンネルが完成した国道191号線・幕之内トンネル。南側加計方面行き(写真では左側)のトンネルは、当時の国道186号線に有料道路として建設され、昭和29年に開通、昭和44年に無料化された旧幕之内隧道を再整備したもの。北側のトンネルは、平成12年3月に新しく開通したトンネルで、このトンネルが完成したあと、旧幕之内隧道を約4年間にわたり通行止にして整備を行い、平成16年3月に現在の上下分離の形での供用となった。
幕之内トンネルのすぐ東側の信号交差点が、幕之内峠への旧道の入口で、この交差点を右(北)へ入る道が旧道。幕之内バイパスの工事により、以前とはかなり様相が変わっているものと思われる。
今では旧道となった幕之内峠を通る道は、明治13年に開通しており、開通当初は2間半(約4.5m)の道幅が、当時としてはあまりにも広かったため、人々から「お化け道路」、「半分は草刈場」と揶揄されたそうである。当時の人には、現在の4車線の道路など、想像のつかないものであろう。
交差点を右折すると、交差点の角に建つ建物の裏で1車線あまりの道幅となり、横を流れる小さな川沿いに続く市道が右へと分かれていく。そのあと、トンネル入り口の掘割の横を通り大きく右へとカーブを切るが、ここは4車線化の際に付け替えられているようだ。
いったん進行方向を逆にし、山の等高線に沿って大きく回りこむような形で幕之内峠へと向けて登っていく。
幕之内峠の南側の丘に造られた墓地への入口を通り過ぎると、ほどなく幕之内峠の頂上に到着する。峠の頂上は旧可部町と旧安佐町の町境であり、切り通しとなった道路の両側に古い石積みが続いており、昔ながらの風景を今も残している。
幕之内峠の頂上を過ぎ、飯室へと向けて緩やかな坂道を下っていく。ガードレールの外側には高さ30cmほどだろうか、コンクリートの柱が何本も残っている。幕之内峠の旧道では、昭和28年に60人あまりの死傷者を出す路線バスの転落事故が起きているが、そうした転落事故を防ぐための施設の名残だろうか。
右へ左へと小さなカーブを繰り返しながら進むと、左手の竹やぶが途切れて視界が開ける。道路右の山側には、国道の4車線化工事のために法面を切り直して、新たに積み替えられたブロック積が、左側にはガードレールが続いている。ガードレールの直下には幕之内トンネルから出たばかりの現道を走る車の様子が良く見える。
道路右手の山の斜面に沿って右へとカーブし、現道から離れた先で、引幕橋という名前の陸橋で広島自動車道の上を渡る。陸橋からは広島北I.C.のすぐ南の高速道路を走る車が見える。
陸橋を渡ったあとは、再び右へ左へとカーブの連続で次第に標高を下げていく。広島北I.C.の料金所の施設のすぐ横を通過する。
高速道路本線への取付道路の法面下を進んでいき、左へ曲がって取付道路の下をボックスカルバートでくぐって、取付道路反対側の法面下へと出る。
進行方向の前方、ガードレールの向こう側にはいよいよ飯室の街並みが見えてくる。すぐ下を通る現道を走る車の音も聞こえてくるので、静かな峠道の雰囲気はなくなってくる。
飯室の街並みに入る手前最後の大カーブに設置されたガードレールの脇には、交通安全協会の「幕之内峠」と書かれた黄色い注意を促す看板があり、幕之内峠が難所として知られたことをうかがわせる。
旧道沿いには民家が軒を連ねて建っており、旧道右側の山の上には1551年頃にここに遷宮したと伝えられる土井泉神社がある。神社の鳥居の脇には、一等水準点が設置されている。急な階段を登った上にある神社の境内からは、飯室の街並みが一望できる。
道の両側に続く家々の中を進んでいくと、正面に養専寺という名前の寺が建つ三差路に出る。この交差点は国道191号線と国道261号線が交わる飯室交差点の東100m足らずのところに位置しており、右手には飯室村が建てた大きな忠魂碑がある。
三差路の中の島の部分には、明治43年に建てられた石造りの常夜灯と大正8年に建てられた道標の石柱があり、石柱には三差路の進む先それぞれの行程上にある地名(市町村名など)と距離が「里・丁」単位で刻まれている。石柱にある地名の中には「祇園村」「三川村」といった昭和初期に町制を施行した村名もある。
このページの作成にあたり、参考とした文献等
かべの町かど
亀山地域のあゆみ 広島市亀山公民館
ひろしま昔探検ネット 財団法人広島市文化財団