旧県道鹿老渡音戸線・長尾峠



 <現在の道>
 倉橋島の東側の海岸線を通っている、呉市音戸町内の国道487号線。昭和5年の広島県報に、当時の県道鹿老渡音戸線を、波多見経由の海岸線沿いへと経路を変更するという告示があり、このときに現在の道へ切り替えられたのではないかと思われる。
 それ以前は、音戸町高須から長尾峠という峠を越えて、畑へと通じる道が古くから利用されていた。



 高須小学校の北側、太田川という川に架かる短い橋に長尾橋という名前が付いている。この橋を渡って続く坂道が、長尾峠へと続く道となっている。なお、長尾峠という峠の名前は、峠道が獣の尾のようにうねうねとしているので、長尾と名付けられたそうだ。




 結構、急な勾配の坂道に沿って民家が建ち並んでいるが、それもほどなくなくなり、その先は山の斜面の段々畑の中を道が続いている。農作業のための作業小屋の横を通り過ぎると、道は竹林とそれに続く雑木林の中へ入っていく。



 峠を行き交う人々の安全を祈願したのか、道沿いに小さな祠があり、その中にはお地蔵さんが祭られている。




 坂道に施されていたコンクリート舗装は小屋の前で途切れ、その先は、未舗装の道にコンクリート擁壁が道の右側に続いているものの、それもすぐになくなってしまう。路面に雑草が茂り、木々の枝葉が伸びた中、いよいよ山の中へと入っていく感じ。



 道の山側には古い石積みがあり、路面の排水を考えて側溝の役割を果たすために、石積みと平行に割石が山側の路肩に並べられている。また、谷側にも古い石積みが残っている。山の凹凸に合わせて左右にカーブを切っているので、勾配も大してきついものではなく、荷馬車くらいは十分通れる道幅があることから見ると、明治以降に荷馬車を通すために作られた道のようだ。



 道路をふさぐように木がところどころに倒れており、堆積した落ち葉で路面は埋めつくされている様子から、今ではこの道を通る人はほとんどいないようだ。



 山側の法面が崩れるのを防ぐために積まれた石積みも、倒木や落ち葉に埋もれつつあり、その間から姿を見せている。道の両側に広がるやや荒れた竹林の中を抜けると、上り勾配だった道がなだらかになり、長尾峠の頂上ではないかと思われるところに着く。峠の頂上ながら、竹林と雑木林の中であるため、周囲の眺望はまったく開けていない。




 長尾橋から峠へと続く坂道の西側に、尾根筋に続く墓の中を通っている、人が歩けるだけの幅の小道がある。作業小屋の下で、コンクリート舗装のされた峠への道と交わり、その先もまっすぐと尾根に道が続いている。この道からは、音戸の街並みと、音戸の瀬戸を行き交う船の様子がよく見える。


 山の中へと入っていくと、急な坂道が続いているが、その坂道には人が歩きやすいようにと、石が埋め込まれている。近年整備された遊歩道でもないのに、わざわざこのような石が施されているところを見ると、人だけが長尾峠を通っていた時代は、こちらの道が峠道だった名残ではないかと思われる。



 急な坂道を登りつめて、勾配が緩やかになると、山の頂上近くながら、道沿いに石積みが残っている。昔は、道よりも一段高いところに、何かあったようだ。石積みの横に続く小道を歩いていくと、先ほどの長尾峠の頂上へと着く。



 峠からの下り道も、上りの区間と同様、雑木林と荒れた竹林の中に道が続いており、倒れた竹の間をすり抜けて先へと進んでいく。



 左から流れてきた小さな沢を渡る箇所には、石積みの上に石板を乗せており、石造りの暗渠のようになっている。


 その先は平場となっており、草むらの中に古い農機具が放置されている状況から、この辺りに水田があったようだ。そして、沢のほとりに古い屋根瓦が残されており、この道が県道として人々が往来していた時代には、道沿いに農家が建っていて人が暮らしていたのかもしれない。




 道の右手の一段低い荒地も、かつては水田だったように見受けられる。進行方向の前方、木々の先には、今から下りていく海沿いの集落と、湾となった奥の内港が見える。その先、道が谷を横切るように通る箇所には、結構な規模で積まれた古い石積みが残っていて、これも昔はこの辺りで人々が活動していた名残のひとつだろう。



 道は谷の西側斜面の中腹へと移り、相変わらず続く林の中を下っていく。道の左手下に耕作されている畑があり、ここまでは今も人が入ってきているようだ。



 未舗装ながら、車が走っているので、路面はこれまでよりも踏み固められており、ところどころに車のわだちも残っている。



 畑の集落の東端に位置する丘の上に作られた墓地の上に出たところで、路面の舗装が復活する。その道を下っていくと畑の集落へと出る。



 集落に下りた先に広がる平地は新開という地名から見て、海を埋め立てて造成した土地だろう。かつての海岸線かと思われる、新開の縁を周り、畑のバス停付近へと至る。


 このページの作成にあたり、参考とした文献等
  わがまちの歴史と伝説 音戸町教育委員会


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