旧県道西条三津線・大峠



 <現在の道>
 東広島市安芸津町と東広島市西条町とを結ぶ、県道安芸津下三永線は、現在では蚊無峠の下を通る、蚊無トンネルにより、両町の境を越えている。
 しかし、大正時代に発行された地図には、当時の県道西条三津線にあたる県道として、西条町から御薗宇村、下三永村を経て、三津町へと至る大峠(おおたお)経由の道が記されているのに対して、現在の県道にあたる蚊無峠の道は町村道となっている。大峠を通る道は、江戸時代から三津街道と呼ばれた主要な道であり、大正・昭和初期までは県道として利用されてきた道だったのである。



 県道安芸津下三永線は、山陽新幹線・東広島駅前を過ぎた先で、安芸津へと向けて南へ進行方向を変える。東広島呉道路の高架橋をくぐり、下三永福本I.C.の入口交差点を左折した先に、千足池という大きなため池があり、そのため池沿いを走る県道から分かれる道が、国土地理院の地形図で見たところ、大峠へ続く道のようである。県道左手の林の中へと入っていく古びた舗装の細い道へと入ってみる。




 古びた舗装路はすぐに途切れ、その先は人が歩ける小道が残っているものの、奥へと進むにつれて、相当なヤブと化している。道を示すテープを手がかりにしばらく進んでみたものの、ひどいヤブのため、この道から大峠へと行くことは断念し、引き返すことにした。




 この山道には、昔は道沿いに電柱が建っていたようで、電柱が倒れないように根の部分を巻いた構造物の跡や、コンクリートの土留擁壁、切り倒された木製の電柱などがところどころに残っている。苔生した木製の電柱の中には、「西條線 一四五號」と書かれ、大正11年10月(!)と年月が入った銘板が残っているものもあった。また、ヤブの中のあちこちに転がっていたせともの(左下の写真)は、碍子だろうと思われる。



 千足池のそばの分岐まで戻って、安芸津方向へ少し進んだところで、県道から左へ分かれて、長野の集落の山手にある長野大池へと続く市道へと入る。



 県道からの分岐近くには民家も建っているが、奥へ入ると民家もなくなり、舗装も途切れて未舗装の道となる。長野大池の横を通って、池へと流入する川に架かる短い橋を渡った先のヤブの中に保安林の標識があり、周囲は少し広い平場となっている。地形図では、先ほどの千足池からの山道がこのあたりで合流するようになっているので、このあたりを少し探索したものの、合流してくる道は、私には見つけられなかった。



 長野大池近辺までは訪れる人もあるようだが、その奥に続く道はだんだんと荒れていき、ついにはヤブの中の小道と化してしまい、歩いて通るのも一苦労である。



 ヤブのため、道がよく分からなくなってしまい、小さな沢沿いにヤブをかき分けながら進んだところ、古い石積みの堰堤があり、その横の斜面を登った先で、凹状にくぼんだ道らしきものを見つけられたので、ここを登っていく。



 地面がぬかるんできて、足元が悪くなってきたなと思っていたら、前方が開けて、道の両側に古い石積みが現れる。ついに、切り通しとなった大峠の頂上に到着である。道の両側に続く石積みは一部が崩れかかっているものの、高いところで高さ2mあまりで、延長は150〜200mくらい続いており、誰も入らなくなった山の中にこのような大規模な構造物が残っているとは驚きである。また、道幅も5mくらいはあり、それまでの登ってきた道と比べれば、かなり広い道となっている。
 明治初期まで五街道に次ぐ街道とされた山陽道の峠でも、これほどの石積みは見られないので、大峠の切り通しは明治時代中期以降に拡幅されたのではないかと思われる。かつては広い道の両側で、大峠を行き交う人々が休んだのだろう。




 大峠の頂上から安芸津へ向けての下り、こちらも堆積した落ち葉などのため、排水が悪くぬかるんでおり、下り始めは足元が悪い。少し下るとぬかるんだ道でなくなるが、今度はその代わりに雑木・雑草が生い茂った、左へ右へとくねくね曲がる非常にカーブが多い道となっており、このカーブの多さは明らかに荷馬車の通行を意識して作られていると思われる。しかし、西条側とは違って、ヤブと言うほどまでは草木が茂っておらず、また道を示すテープがあるので、道をたどるのはそれほど困難ではない。



 途中、昭和45年に治山事業で施工したという石板が付けられているコンクリートの堰堤がある。山の等高線に合わせて沢から離れたかと思うと、大きくカーブして堰堤の下流あたりを通っていく。



 その先で、雑木・雑草の生い茂った道から、ちょっとした平場へと出る。大峠から沢沿いに人が歩ける道があったそうだが、その道と合流していたのもこのあたりかと思われるが、沢の上流方向を見てもその道があるようには見えない。
 しかし、平場から少し上流に分け入ったところすぐに、大小2体のお地蔵さんががあることから、昔はここに道があって、人々が道中の安全を祈りながら通ったであろうと思われる。左側の大きなお地蔵さんには、正面に「有情」「延命菩薩」「親友」、側面に「寛延四辛未」などの文字が刻まれており、以前は2体のお地蔵さんの上に屋根が架かっていたようだが、屋根を支えていた柱が腐って倒れてしまい、雨ざらしの状態になってしまっている。なお、寛延四年は江戸時代の中期(西暦では1751年)であり、今から350年以上も前だ。



 平場から続く道を下っていくと、道沿いのところどころに古い石積みが見られるようになる。昔はこの辺りまで田畑を耕している人がいた名残で、先ほどのお地蔵さんは、峠へ向かっての淋しい山道へと入るところ、ということであそこに設置されたのかもしれない。


 山の南東斜面にまっすぐと道が続いているが、この道は新しく建設された林道(?)で、道沿いに設置された保安林の標識に記された年代から見て、昭和60年前後に建設されたのではないかと推測される。しかし、現在は放置されているようで、擁壁などコンクリート構造物の一部は崩壊し始めている。




 平場から少し下ったところで、進行方向右手の小さな沢を渡る崩れかけた石橋があり、それを渡ってうっそうと茂る木々の中に続く道を下っていくと、やはりこの道沿いにも耕作の名残であろう石積みがあちこちに残っている。また、国有林を示す西条営林署の看板や、家か倉庫を崩したときに出たトタンなどが道の横に置かれていたりして、かつては人々が生活していたことが偲ばれる。



 進行方向左手に流れていた沢を石橋で渡ると、谷の幅が広くなり、ようやく木々が茂る雑木林の中から出て、日当たりのよいところへ出てくる。かなり傷んではいるものの、舗装が残った道を進むと、左手から先ほどの林道が合流して、その先には親柱に「大峠橋」と刻まれた短い橋があり、その橋を渡る。



 山から出てくる沢には、三面張りの流路工が整備されて残っているなど、以前はこの山中にもそうした整備の必要性があるほど、人々の活動が営まれていたのだろう、そうしたことに思いを馳せながら、峠からの道を下りて行く。



 やがて、左手下のほうに、水を満々と湛えた大きなため池が見えてきて、そのため池の横へと下りる。このため池は昭和池という名前で、安芸津の水源地となっている。


 昭和池から上流へ向けて、林道を100mあまり登ったところには、二条に水が落ちる夫婦滝という名前の滝がある。芸藩通史には糸谷の滝という名前で記されており、儒学者の菅茶山がここを訪れ、漢詩を詠んだという。



 昭和池の建設により付け替えられた道は、2つのヘアピンカーブで、川と並行してきたであろうもとの道へ合流する。昭和池の建設工事の間は、大峠に通じるこの道も何らかの通行規制があったとも考えられ、池の工事と峠道が廃れたのと何か関係しているのであろうか。
 三津大川に架かる汐潜橋のあたりは、汐くぐりと呼ばれており、大昔はここまで潮がきていたという言い伝えが残っているそうだ。(右の写真・このあたりの標高は100mを超えており、河原の岩にカキ殻が付いていたということから、そのような言い伝えが起こったのではないかとされている。ちなみに、尾道市の生口島にも、山頂にカキ殻が付いた岩があるとの記録があることから、牡蠣山という名付けられた山がある。)



 汐潜橋を渡ると、市之畑の集落へと入り、三津大川沿いの谷筋に作られた田畑と、点在する民家を見ながら進む。市之畑集会所の手前で三叉路になっており、道なりに続く道は川沿いにまっすぐと県道へと出るが、ここをまっすぐと進む道が昔からの道のようだ。



 普通車一台がなんとか通れる2mあまりの幅の道を進んでいくと、道路右側にお地蔵さんを納めたお堂がある。そのお堂の前には明治31年3月に建てられた石碑が建っており、道路改修工事に寄付をした人の名前とともに、工事の完成を称える一文が刻まれている。


 道路の進行方向右手下に片側1車線の県道が近づいてきて、カーブの先の消防屯所の前で、大峠を挟む区間の旧県道は、現在の県道と合流する。


 このページの作成にあたり、参考とした文献等
  安芸津の歴史散策 乃美完次
  あきつねっと・あきつ歴史のさんぽみち


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